医療におけるリバタリアニズム(2021年2月8日のtwitterより転載)
私が「リバタリアニズム」についてここで紹介しようと思ったもう一つの大きな理由について書いておきます。それは結論から述べれば、「リバタリアニズム」の基本概念が、当院の医療に対する考え方とパーフェクトにマッチするからです。
どういうことか述べていきましょう。リバタリアニズムには、「個人主義」という基本概念が存在します。これは、個人を社会の基本単位・最小単位と考えるということです。あらゆる物事に対して唯一個人だけが決定・選択すべきであり、自分の行動に自分が全責任を負うべきである。この考えは、権利と責任の両方を伴う各個人の尊厳を何より重視します。わかりにくい言い方かも知れませんが、要するにリバタリアンは、「自分のことは自分(だけ)が決めるべきで、他者に委ねるべきではない」と考えます。逆に言えば、「他者のことに口を挟むな=Do not disturb」ということです。これはアドラーの心理学でいうところの「課題の分離」にも通じる概念ですね。そしてこの原則は、リバタリアンからすれば当然医療にも適応されるべきことです。
つまり、簡単に言えば、患者には治療選択の自由(自己決定権)があり、どんな治療を選択しようが患者自身がその責任を負うということです。しかしながら、残念ながら実際には今の医療システムではそうはなっていません。例えば日本では1961年に国民皆保険制度が整備されて以降、政府(厚労省)が保険医療を選定しており、保険医登録された医師が保険医療機関においてその保険収載されている治療法を全国各地で一律に患者に提供できるシステムになっています。一見これは素晴らしい制度だと思えるかもしれませんし、実際にこの国民皆保険制度は他国にはない優秀なシステムとして紹介されることが多いようです。しかし、この国民皆保険制度はリバタリアンの見地からすれば不正な制度であると考えざるを得ません。
なぜなら、日本における国民皆保険制度は、我々医師からしても患者からしても、「縛り」の大きい制度だと言わざるを得ず、国が不正に患者の治療選択の自由・機会を奪っていると考えられるからです。例えば、現行の日本の医療保険制度の下では、保険医登録された医師しか保険医療を患者に提供できず、その治療は保険医療登録機関でしか提供されません。しかも保険診療以外の治療以外は受けられない。これはすなわち、“人”と“場所”と“診療行為”という3重の意味での制限があるということになります。つまり、我々は高い保険料(均約38万円/年)を国に搾取されているにも関わらず、自分が望む医師の下で、自分が望む場所で、自分が望む医療を受けられることが常に保障されているわけではないということなのです。これだったら保険診療以外の治療を受けたいと思う人たちにとっては、それほど高い保険料を払う意味があまりないでしょう。
保険診療の中で認められた標準治療を受けたい患者や、標準治療を勧めているほとんどの医療機関にとっては、現在の日本の国民皆保険システムは非常に良いシステムであると感じられることでしょう。しかし実際には標準治療しか治療法がないわけではなく、標準治療以外の治療を求める患者がたくさんおられます。そのような患者にとっては、国民皆保険制度はただ無駄に医療費を搾取される最悪な制度だと言えるでしょう。もちろんだからと言って当院として国民皆保険制度を全否定しているわけではなく、例えば救急医療において(命に関わる疾患で)患者選択の余地がない場合には保障されているべきだと思います。
しかし、こと癌などの慢性疾患においては、標準治療以外の代替医療を含めて様々な治療法があり、それを患者が自由に選択できる状況があった方が良いと思います。標準治療だけをエビデンスある治療だからということで国が保障し、その治療を受ける患者の医療費を国費でまかなうというのはおかしい。さらに言わせていただければ、EBMでも言われるところの「エビデンス」というのは、患者が治療選択をする際の一つの判断材料として用いられるべきもので、「エビデンスのない治療はしてはいけない」というわけでは決してないのです。エビデンスがなくても自分に合っている治療だと思うならやれば良い。つまり、エビデンス至上主義=EBMではないのです。もっとも、リバタリアニズムが浸透した世界であれば、エビデンスを重視し、しっかりしたインフォームド・コンセントを求める患者が増えるでしょうけれども。
少し話が逸れましたが、言いたいことをまとめます。リバタリアンが政府に対して望む医療制度は、あくまでも自由に自分の望む治療が受けられる医療システムです。国民皆保険のような過剰な医療補助制度のために国民一人一人に必要以上の負担(税金)がかけられることは不正なことだと考えます。リバタリアンは税金を合法的な政府の搾取(泥棒行為)だと考えるからです。そしてリバタリアンは医療も最大限自由化されるべきだと考えます。またできれば厚労省のような製薬業界とズブズブの政府組織でなく、第三者機関に薬の安全性や有効性、各医療機関で行なわれている医療の質やエビデンスを審査させます。そして各保険会社はその第三者機関のデータを元にどの医療にどれだけ保障できるかを決め、消費者に公表する。そして自分で決めた保険会社に毎月保険料を支払っている消費者は、病気になった時にそれらの保険会社から保障してもらって、各医療機関で治療を受ける。これこそが正しい医療のあり方です。そうすることで政府が一切国民の治療選択の自由に介入することはなくなり、国民は自分の判断で受けたい治療を選ぶことができるようになる。また政府内に厚労省のような審査機関を設けないことで、第三者審査機関がもし製薬業界と癒着し始めても、別の独立審査機関のデータを元に判断できるようになる。
もちろん、このようなリバタリアンにとって理想の医療体制を構築することは、大きくなりすぎた製薬業界にとっては大変不都合なことですから、認められないでしょうし、そのような医療体制が実現されることはまずあり得ないでしょう。ですからこれは当たり前の話ではありますが(もし保険診療できる標準治療を望まないのであれば)、保険診療をしていようがなかろうが、自ら望む治療をしてもらえる病院を探して自らその病院に赴くしかありません。ちなみに当院の理想の医療とは、戦後4半世紀も医師会会長を務めた武見太郎がしていたように、患者の言い値で自由に治療費用が決められることです。富める者も貧しい者も、治療を言い値で決められたら、良いと思いませんか?
もちろん、信頼し合える医師患者関係が構築されていることが大前提ですが。