「リバタリアニズム」について(2021年2月6日のtwitterより転載)

私の根本思想であり、この現代社会を生き抜くための重要な手段となり得る(と私が勝手に思っている)「リバタリアニズム」という政治哲学・経済思想(理論)についてお伝えしてみたいと思います。

ところで、このコロナ禍に遭って、コロナパンデミック疑問や違和感を感じて自ら調べ、やはり様々な事柄がおかしいということに気づき、そこから一気に火がついて他のいろいろな事象を疑うようになったという人がかなり増えたように思います(とはいえほんの一部でしょうが)。特に(世界的に見ればまだかなりマシとはいえ)、コロナパンデミックを煽り、緊急事態宣言発令などによって国民を救済するどころか、その首を絞めている日本政府に対する不信感が拭えないという方が、相当多くいらっしゃることと思います。

もちろんそれは今に始まったことではなく、政府(国家)は我々国民に常に(意図的かどうかは別にして)嘘をつき続けてきました。そしてその嘘に嘘を上塗りしているのにも関わらず、メディアを上手く使って(自分で調べようとしない)国民には、その嘘を嘘とわからない(あるいは気づかせない)ように印象操作をしてきました。それはもちろん、根源的には国・政府に対して「お上」という意識の強い日本人の国民性(アイデンティティ)に問題があるからです。

一人一人が独立心を持って、「政府には頼らない」、もっと言えば「(権力者が作り上げた)今の社会システムには迎合しないぞ」という強い意思さえあれば、今の状況は防げるはずだと私は思うからです。政府=国家権力は、我々一般市民の権利・自由を奪い去る暴力装置であり、彼らに絶大な権力を持たせることは極めて危険なことであるという認識が、我々日本国民(だけではありませんが)には足りなさすぎると思います。まさにこの政府=国家権力の絶大なパワーを抑止する必要があるとし、それによって我々一般市民の自由や権利は最大限に約束されるべきだとする思想こそが「リバタリアニズム」という政治思想(哲学)の真髄であり、これこそこれからの現代社会を生き抜く上で、私は最も重要な思想・哲学だと思っています。

それでは、ここから私の中に根付いている根源的な思想・哲学であるリバタリアニズムについて解説していきたいと思います。はじめにリバタリアニズム(libertarianism)という言葉について解説したいと思いますが、その前に「自由」とは何かということについて触れておきます。まず、「自由」を意味する「liber(リベル)」というラテン語がありますが、これは「規則・規制に縛られない」という意味での「自由」という意味合いを含んでいます。これを語源として、「liberty(自由)」や「liberal(自由主義者)」という言葉が生まれました。ちなみに、「Freedom」も「自由」という意味の英語ですが、これは産まれながらの“牧歌的な自由”を示す言葉であり、“不自由な状態から解放された自由”という意味である「Liberty」という言葉が示す「自由」とは似て非なるものなのです。すなわち、語源的に考えても「Liberty」には「規則・規制によって縛られた状態(=不自由な状態)から解放された状態」という意味合いが含有されており、「Freedom」という言葉が持つ“自由”の意味合いとは全く異なるということは覚えておくべきでしょう。

我々日本人が日本語で単に「自由」というと、何か無条件に素晴らしいものであるかのように思えますが、“freedom”ではなく“liberty”と言った場合には、「能動的に(自ら)獲得して得られた自由」という意味を示し、これはほとんどの日本人には馴染みのないものかもしれません。これはやはり日本人は昔から規則や規制で縛られるのが当然であり、その状態から自由になるために本気で争ったりしないからだと私は思っています。その日本人の、お上に楯突こうとすることなく、規則・規制に縛られた不自由な状態ながらも置かれた立場に甘んじて生きていこうとする「事なかれ主義」は、人の良さで言えば良いこととも捉えられるかもしれませんが、それはある意味では奴隷根性が根付いているとも言えないことはなく、権力者・支配者からすれば都合の良い国民性と言えるかもしれません。

さらに言えば自由主義(Liberalism)の原型は、中世ヨーロッパの王や皇帝が君臨する王政国家において、貴族社会の中で憂き目に遭っていた(ユ◯ヤ)商人たちが自由に商売(麻薬密売や武器の販売や奴隷売買を含む)などを許してもらう代わりに、王族に税金を納めるという生き方・考え方から生まれたものであり、すなわち「Liberalism=自由主義」は、ユ◯ヤ思想(ユ◯ヤ人の生き抜く術)から生まれたものであることは教養として知っておくべきでしょう。すなわち「Liberalism」とは、我々日本人が思い描く無条件に素晴らしい自由などとは程遠く、どちらかというと虐げられる立場の人間が持つ「卑屈さ」から生まれた思想・概念であるということは肝に銘じておくべきです。

ところでみなさんは、マイケル・サンデルというハーバード大学の政治哲学者をご存知でしょうか??サンデル教授の講義を本にまとめた『Justice:これからの「正義」の話をしよう』が日本でもベストセラーになりましたが、彼が唱えている政治哲学は、コミュニタリアニズム(Communitarianialism)と呼ばれます。これは日本語では「共同体(優先)主義」と訳され、簡単に言えば、共同体(コミュニティ)の中で培われる価値観を重視する思想・主義です。この思想も実はイスラエルに入植したユ◯ヤ人たちが集産主義的(コレクティビズム)な集団生活の中から生まれたものです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/集産主義

そして、サンデルらコミュニタリアン(=共同体主義者)らは、「政治は個人の価値観に対して中立であるべきだとの立場を捨て、社会にとって何が正義・美徳・共通善であるのかを示していかなければいけない」と考えます。コミュニタリアンらは「政府は何が正義か、何が善かを決めても良く、その正義や善を市民の代表者らが政策として打ち出した場合には我々一般市民はそれに従うべきだ」という考えを持っています。サンデルら共同体主義者は、民族や国家や地縁集団や家系や宗教団体などの、しばしば個人の自由意志での脱退が困難(不可能)な共同体の共通善や正義を重視し、尊重し、優先させます。すなわちその人の生来置かれた立場や所属している団体やグループなどの“ルーツ”を重視しており、これは「反・自由主義的」であり、個人の自由・権利を何より重んじる「リバタリアニズム」の思想とは真っ向から対立する主義・主張です。

また、サンデル教授は自らを「共和主義者republican」であると称していますが、これも個人にとっての善よりも「公共善」 を、個人の自由よりもその人格形成と共同体の「自己統治」とを重視する立場の人たちです。サンデル教授はそれを自称するほど筋金入りの共和主義者のようです。サンデルのような筋金入りの共和主義者らは、「政治への積極的参加こそが市民の良い生活にとって欠かせない構成要素であり、政治参加が人格を高め豊かな人間性を育てる」と考えがちで、「参加型民主主義」を訴え、一般市民の政治参加を強要しがちです。これは古代ギリシャの直接民主制を理想化する立場の考え方です。しかし、そもそも政治参加が人格を高めると言えるのでしょうか?

もちろんリバタリアニズムの見地からの回答は、全くの否です。先述の通り(公民的)共和主義者らは、政治的・公共的選択・決定への参加を一般市民に強制したがりますが、これは人間本来の多様性を全く無視した考えであり、個人的自由に対する全面的な侵害ですらあるとリバタリアンは考えます。例えば今の日本において政治的な参加を一切していなくても、個々人がその人生を全うすることは十分可能であり、そのような政治に参加せずに暮らす人々の生き方・考え方を間違っているとして非難する権利など誰にもありません。むしろリバタリアンは政府が一般社会に果たす役割は非常に限定的であると考えますから、政治に参加しない人々にも多額の納税義務が課されることに関しては、完全に不正なことであり、法の下での暴力であり、国家ぐるみの犯罪であるとすら考えます。

さらに言えば、今の世界支配体制(政治システム)の下では、一般市民が政治に参加してどんな代議士を選んだとしてもその代議士にやれることなどごくわずかです。たとえ我々一般市民の多数が選んだ代議士が日本の首相になったとしても、世の中の流れを変えることはできず、結局は日本の政治など「コップの中の嵐」に過ぎないわけです。そんな中で政治に参加することが正しいことだと主張する共和主義者らの言動は、世間知らずの戯言にしか聞こえません(ただし、私はデモに参加したり、票を投じたりすることで自分の意思表示をすることには一定の意味があるとは思っています)。

ところで、勘違いしてもらっては困りますが、この「リバタリアニズム」は私自身の思想信条(人生哲学)でもありますが、これはあくまでも私自身が採用している思想であって、何も他者に強要したり、その思想を当院として患者に推奨したりするものではありません。また、「リバタリアニズム」は政治哲学の一つとして紹介されることが多いのですが、それはあくまでも政治分野における思想・哲学という位置づけであり、思想体系としては政治だけでなく、市場経済や個々人の生き方についての指針を示してくれるものです。つまり、私がこの場で「リバタリアニズム」について紹介しているからといって、当院として何か特定の政党や政治家を応援しているということは当然なく、また先述した共和主義者らのように、患者やフォロワーに政治に関わりを持てと強要したい訳でもありません(むしろそれは個人の自由であるというのがリバタリアニズムの根本思想)。

では、なぜ私が「リバタリアニズム」という思想についてここで触れているかというと、何度か書いてきた通り、この思想がこの現代社会に起こる様々な事柄や歴史を考える上で非常に参考になるからです。政治だけでなく、経済においても、そして生き方や対人関係においても非常に有用な思想だからです。ですから、当院の患者やフォロワーにもぜひその思想について知っていただければと思い、「リバタリアン」でもある私がその思想について、この場を借りてみなさんに紹介している、というまでです。それ以上の深い意味があるわけではないということをご承知ください。

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