「免疫(Immunity)」について パート1(2020年7月26日のtwitterより転載)

故・多田富雄東大名誉教授が「免疫の意味論」を著したのが1993年。それから30年余りが経ちますが、免疫学者の中でも免疫の本質を理解している人は本当に少ないように思います。彼らは終始枝葉末節のことばかり研究し、免疫の全体像をつかめていないのだと感じます。多田富雄先生はその著書の中において、免疫システム最大の特徴は「自己と非自己の識別」にあると考えておられたようですが、免疫とは決してそのような自己と非自己の認識のために存在しているシステムではありません。

多田富雄先生は、抗原認識レセプターの多様性形成過程に偶然が介在しているようにみえたり、免疫担当細胞が行く先々の組織の微小環境によって生死を含めた運命に多様性が生じたりする、免疫システムの興味深い特徴に注目して、免疫システムを「超システム(スーパーシステム)」と呼称しました。要するに、多田富雄先生は自分の(人類の)理解を超えた免疫システムを「超システム」と名付けることにより、免疫システムの本質に対する具体的な説明を避け、免疫システムが本来持っている曖昧さを受容したわけです。しかし、これでは一般人はもちろんのこと、専門家でも免疫についての大きな理解ができません。当時の多田富雄先生だけではなく、世界中の免疫学者のほとんどが今現在でも「免疫」というものに対してそのような漠然とした理解で臨んでいるように私には思えます。そして枝葉末節の研究ばかりして本質的な理解が全く進んでいないのではないかと思います。

「免疫」というと、読んで字のごとく「疫(えき)を免れる」、すなわち「感染症(=疫)から身を守る」ためのシステムであるというのが一般的な理解かと思います。すなわち、ウイルスや細菌、寄生虫などの一般的な感染症を引き起こす微生物を排除する仕組みだという理解ですね。あるいは、現代免疫学では「自己の免疫が過剰に働いて(暴走して)起こる」とされているアレルギー・アトピーや関節リウマチなどのいわゆる「自己免疫疾患」を引き起こさないために、「自己」と「非自己」を見分けるためのシステムこそが「免疫」であるというのがメインストリームの考え方になっています。

しかし、免疫というものは実はこのような「感染症から身を守る」ために発達・進化してきたわけでも、「自己」と「非自己」を見分けるために生命が身につけたシステムでもありません。多田富雄先生が「超システム」と名付けた免疫システムは、実は体内環境を一定に保つための大きなシステムであり、感染症から身を守る、ウイルスや細菌などの病原体を処理するという働きすらも、実は枝葉末節のものに過ぎません。

では「体内環境を一定に保つ」とはどういう意味でしょうか。それは簡単に言えば、「体内に蓄積したゴミを処理する」ということです。「体内に蓄積するゴミ」とは何でしょうか。それは、あらゆるストレスにより障害を受けた我々の身体を構成する細胞の死骸や断片、生命場(体内環境)を乱すウイルスや細菌やその他の化学物質の存在、などです。すなわち、これらを片付ける(ゴミ掃除する)システムこそが「免疫システム」なのだということです。

ですから、「免疫」とは簡単に一言で言えば体内に蓄積した「ゴミ掃除」をするためのシステムであると言っても過言ではありません。そして、その「ゴミ掃除」の中心的な役割を果たしているのがマクロファージや樹状細胞や好中球などの白血球であり、これらの細胞が活躍することで我々の生命場が一定の環境に保たれているのだということを、まずは押さえておいていただければと思います。

 

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