『鬼滅の刃』について思うこと(2020年11月4日のtwitterより転載)

先日、『鬼滅の刃 無限列車編』を鑑賞して参りました。『鬼滅の刃』に関しては、我が家では子供達とTVで放映されていたアニメ鑑賞もしておりましたが、映画も本当に素晴らしく、久しぶりに感動して心が高ぶる内容だったように思います。特に劇中でもクライマックスとして描かれていた煉獄杏寿郎と猗窩座との死闘は、手に汗握る瞬間でした。

ところで、何故この『鬼滅の刃』 がここまで社会現象になるほどに爆発的な人気を得ているのか?みなさんは考えたことがあるでしょうか?私なりに考えたことをここでまとめてみたいと思います。

結論から言うと、空想である鬼滅の刃の世界観が、我々が生きている現実世界と重なるからだと思います。『鬼滅の刃』に登場する欲望にまみれた「人喰い鬼」のような存在は実際にこの現実世界にも存在しています。むしろ、我々が生きる現代社会においては、その欲深い鬼のような人間で溢れ返っていると言っても過言ではありません。すなわち、『鬼滅の刃』に登場する鬼は、実は現代社会に生きる欲深い人間そのものとして描かれているということです。そして、その鬼たちと人知れず戦う鬼殺隊の剣士たち。特にその中でも最高位に当たる「柱」と言われる剣士たちは、もれなく常人の域を遥かに超える能力・剣技を持ち合わせており、まさに「ヒーロー」と言える実力を持った人たちです。

『鬼滅の刃 無限列車編』 では、煉獄杏寿郎という鬼殺隊の柱の一人(炎柱)が鬼の中でも最強ランクである「上弦の参」、猗窩座という鬼と対峙するシーンがあります。その際に相対した煉獄杏寿郎の柱としての強さを察した猗窩座は、殺すには惜しいということで、煉獄杏寿郎に“鬼”になるよう勧誘します。しかし、煉獄杏寿郎はその猗窩座の誘いをきっぱりと断り、「君とは価値基準が違う」という言葉を何度も言い放ちます。そして猗窩座は「鬼にならないなら殺す」と言って、そのまま二人は死闘を繰り広げます。

この煉獄杏寿郎の鬼の勧誘を断固として拒否する姿や、自らが最強の鬼の攻撃に打たれ、傷つきながらも列車の乗客を最後まで守ろうとする彼の姿に心を打たれた人も多くいたことでしょう。そして、ギャグの要素も多く存在するアニメであるがために、映画のラストシーンは感動の渦を巻き起こしました。私が映画の観覧に赴いた時も、ほぼ満席でしたが、映画が終わっても多くの人のすすり泣く声が聞こえていました。しかも幼稚園児や小学生までもが涙を流して泣いている様を見て、私は「この映画はすごい力をもっている」ということを確信し、『鬼滅の刃』がここまで爆発的な人気を得た理由がその時にはっきりとわかりました。

もちろん誰しもが性悪極まった鬼には成り下がりたくないと思っているはずです。しかし、『鬼滅の刃』に登場する鬼たちの多くは、人間であった時に凄惨な暗い過去や境遇を持っていたり、鬼にならざるを得ない(あるいは自ら望んで鬼になる)状況に追い込まれたりしているのです。現代社会の鬼=欲深い人間にも同じことが言えるかも知れません。ここ日本でも誰も最初はそこまで欲深いわけではなく、純真爛漫な子供時代を送っている人が多いと思います。しかし、大人になるにつれて、汚い世界を見すぎたせいで心までが穢されていってしまう。あるいはすでに心が鬼と化している大人たちに出遭い、その鬼のような人間と接する間に自らも鬼のような存在として生きることを余儀無くされる。すなわち、欲深い鬼にならざるを得ない社会状況・環境にある人もいるということです。そしてそのような状況で鬼になり切れなかった人間は、最終的には鬼になり切った人間によって食い殺されていく。そういう社会構造になっているということが問題なのです。

つまり、残念なことに「鬼滅の刃」の主人公である竈門炭治郎のように、心が清く美しい清貧な人間が損をし、生きにくい社会構造になっている。そしてそういう鬼と成り下がった人間たちは、『鬼滅の刃』の中でも描かれている鬼のように、とことん利己的で他者(他の人間たち)を食い物にする性根の腐った「クズ」な存在として描かれています。しかし、そのクズな鬼たちも、実は最初からクズだったわけではなく、クズになってしまう環境や境遇があったことも描かれています。実はこの部分がポイントなのではないかと私は思っています。鬼になった人間は、最初から鬼だったわけではない。最初から性根が腐っていたわけでは決してないのです。そうならざるを得ない悲しい境遇や暗い過去があり、その環境のせいで鬼化していくのだということなのです。そして、凄惨な環境にいる人間たちに、甘い言葉をかけて鬼になることを勧誘してくる、既に鬼になった人間が存在するのです。「鬼になれば、なんでも好きなことができるぞ」と。そのような誘いを断れない環境に置かれている人間は、鬼になることをためらいながらも、鬼にならざるを得ないのです。

『無限列車編』で最強の鬼の一人である猗窩座と対峙する煉獄杏寿郎は、作中で、か弱く儚い存在である人間を守ることが強者である自分の使命であるという思想・哲学を持っており、煉獄家ではそのような思想・哲学が代々受け継がれているのだということがわかる描写が作中にも出てきます。『鬼滅の刃』では、最強の鬼軍団(上弦の鬼たち)に立ち向かえる人間は、鬼殺隊最強の剣士である柱しか存在しません。鬼殺隊のメンバーでもないか弱い存在である人間たちは、やむなく凶悪な鬼どもの餌になるしかない存在であり、鬼殺隊最強の剣士たちは、そんな人間たちのために戦うヒーローとして描かれています。しかし、そんなヒーローの存在を人間はほとんどの人が知りません。それは鬼殺隊が政府公認の組織ではなく、また鬼(太陽の光で死ぬ)が人前に出没する夜間にしか戦わないからです。そんな人知れずか弱い存在である他者のために我が身を投げ打って鬼と戦う鬼殺隊の剣士たちに心打たれて、『鬼滅の刃』のファンになったという人も多いのではないでしょうか?

『鬼滅の刃』に登場する鬼のような人間が跋扈し、「今だけ」・「金だけ」・「自分だけ」という私欲にまみれた人たちが溢れている現代社会において、鬼殺隊の柱のように「自分の身を滅してでも他者のために生きる」という崇高な理念・思想を持った人間は皆無と言っても良いでしょう。そのような自らを滅してまで他者のために生きようとする “利他”の精神だけでは、とてもまともには生きていけません。私は欲望にまみれた鬼のような生き方も嫌だし、他者のために自分の身を滅ぼすような生き方もできません。だからこそ、せめて自分のやりたいことをやりつつも、他者を幸せにする生き方(自利即利他)がしたい。『鬼滅の刃 無限列車編』を見て、ふとそんなことを考えました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です