【「“生命の本質”から根本治療を考える」シリーズ第一弾:生命とは何か?Part4 生命の謎を解く鍵=遺伝子(DNA)!? ~遺伝子はなぜ神格化されたのか?~】
遺伝子の本体がDNAであることが示される前から、「人間の性質は遺伝によって決まる」という考え方(=遺伝子決定論)は、社会の中に浸透していました。19世紀末から20世紀前半にかけて広まった「優生学」は、その典型です。「優生学」を信奉する支配層の人間たちは、人間の知能・能力・精神疾患・犯罪性・貧困・社会的適応能力までもが遺伝的に決まるという前提に立ち、「優れた遺伝子」を持つ人間を増やし、「劣った遺伝子」を持つ人間を減らすことで社会を改良できると考えました。この思想は、実際に米国や英国、ドイツなどで政策化され、移民制限、婚姻制限、障がい者や精神疾患患者への強制不妊、さらにはナチス・ドイツの人種衛生政策にまでつながっていきました[25,26]。すなわち、「遺伝子決定論」は、優生思想や社会統制の基礎となる危険な思想であり、上記のような政府施策の正当化のために利用されてきたということです。個人的には、遺伝子決定論や優生思想は、支配層・エリート層やテクノクラートらの間で共有されており、彼らの目的のために都合よく利用してきた似非科学だと考えています。穿った見方かもしれませんが、遺伝子の実体が明らかになる前からこのような思想が社会に蔓延していたことは、遺伝子決定論や優生思想がよほど支配層に都合の良い考え方であったのだろうと思います。
その後、20世紀中盤以降の分子生物学は、実際に大きな成功を収めました。先述した通り、DNAが遺伝情報の主要な担体であること、二重らせん構造によって自己複製が説明できること、塩基配列として情報を読み取れること、そしてヒトゲノム全体が解析可能になったことは、生命科学における大きな成果です。しかし、この巨大な成果は過剰に一般化されました。本来は「DNAは遺伝情報の重要な担体である」という話に過ぎないにもかかわらず、それがいつの間にか「生命の本質はDNAにある」、「病気も性格も能力も運命も遺伝子が決めている」という思想に結びつき、「遺伝子決定論」という神話を産んでしまったのです。
この流れをさらに強めたのが、進化論と遺伝学の統合です。ダーウィンは進化を自然選択によって説明しましたが、20世紀にはメンデル遺伝学、集団遺伝学、分子生物学が統合され、進化は「遺伝子変異と自然選択」によって説明されるようになりました。これがいわゆる「ネオ・ダーウィニズム」として知られる思想体系です[27-29]。この枠組み自体は、生物進化を説明するうえで重要な成果でした。しかし、ここでも「進化の単位は遺伝子である」という見方が強調されるにつれ、生物個体や環境、発生過程、代謝状態よりも、遺伝子を中心に生命を理解しようとする傾向が強まりました。この「遺伝子中心主義」を一般社会に広く印象づけたのが、リチャード・ドーキンスの代表的著作『利己的な遺伝子』でした。ドーキンスは、自然選択を「遺伝子の視点」から説明し、生物個体を遺伝子の乗り物として捉える強力な比喩を提示しました。この考え方は進化生物学に大きな影響を与え、進化を理解するうえで有用な視点を提供しました。しかし同時に、「私たちは遺伝子に操られている」、「生命の主体は個体ではなく遺伝子である」という印象を社会に与えることに貢献しました[17,30,31]。ちなみに、ドーキンス自身は単純な遺伝子決定論を主張しているわけではありません。問題は、科学的モデルや比喩が一般社会に対して単純化されて伝わり、「遺伝子がすべてを決める」という強い物語・神話に拡張されてしまったということです[32]。
こうして、遺伝子が生命・進化・病気だけではなく、人々の性格や知能や思想や運命までも含めて全てを決定・支配しているという「遺伝子決定論」という“教義”が生まれ、もはや科学概念を超えて遺伝子の存在そのものが神格化されてしまったのです[33]。
参考文献▽
[25] G.E. Allen, The social and economic origins of genetic determinism: a case history of the American Eugenics Movement, 1900-1940 and its lessons for today, Genetica 99 (1997) 77–88. 10.1007/bf02259511.
[26] A.M. Spiegel, THE JEREMIAH METZGER LECTURE: A BRIEF HISTORY OF EUGENICS IN AMERICA: IMPLICATIONS FOR MEDICINE IN THE 21(ST) CENTURY, Trans Am Clin Climatol Assoc 130 (2019) 216–234.
[27] K.E. Wellen, G. Hatzivassiliou, U.M. Sachdeva, T.V. Bui, J.R. Cross, C.B. Thompson, ATP-citrate lyase links cellular metabolism to histone acetylation, Science 324 (2009) 1076–1080. 10.1126/science.1164097.
[28] N.C. Stenseth, L. Andersson, H.E. Hoekstra, Gregor Johann Mendel and the development of modern evolutionary biology, Proceedings of the National Academy of Sciences 119 (2022) e2201327119. doi:10.1073/pnas.2201327119.
[29] V. Singh, K. Singh, Modern Synthesis, 2017.
[30] E. Keller, The Century of the Gene, 2002.
[31] R. Lewontin, Biology as ideology : the doctrine of DNA, 1st U.S. ed., HarperPerennial, New York, NY, 1992.
[32] D. Noble, Neo-Darwinism, the modern synthesis and selfish genes: are they of use in physiology?, J Physiol 589 (2011) 1007–1015. 10.1113/jphysiol.2010.201384.
[33] D. Nelkin, M.S. Lindee, The DNA Mystique
The Gene as a Cultural Icon, University of Michigan Press2004.
