先述した通り、20世紀後半の生命科学の世界では、「遺伝子こそ生命の鍵である」という考え方が大きな影響力を持つようになりました。その出発点となったのが、1953年に発表されたDNAの二重らせん構造の発見であったことはもはや言うまでもありません[11]。この発見は、「遺伝子(DNA)は生命の設計図である」というイメージを強く印象づけました[40,41]。
「もし人間の遺伝情報をすべて解読できれば、生命の仕組みや病気の原因も解明できるはずだ――」。
こうした期待のもとに、1990年代に開始された国際的プロジェクトが「ヒトゲノム計画(Human Genome Project)」でした[42,43]。そしてついに2003年4月、人類のゲノム配列の大部分(99%)が解読されたときも、医学界には以下のような大きな期待が広がりました▽
病気の原因遺伝子が見つかる
個別化医療が実現する
多くの病気を根本から治療できる
また、当時は「ヒトゲノム解読は医学を革命的に変える」とまで言われていたのです[44]。しかし、ヒトゲノムが解読された後、研究者たちはある残酷な事実を知ることになり、大きな期待はあっという間に失望に変わります。それは「遺伝子情報だけでは病気の原因もわからないし、その(根本的な)治療法も見いだせない」ということでした。実際には、糖尿病・心疾患・アトピー・自己免疫疾患・がんなど多くの慢性疾患は、遺伝子だけではその発症メカニズムも説明できず、(根本的な)治療もできないことが明らかになったのです[45-47]。
しかしながら、その暗澹たる結果にも関わらず、遺伝子研究者たちは一度開けたパンドラの箱を閉じようとはしませんでした。彼らが次に注目したのが、「 GWAS(Genome-Wide Association Study:“ジーバス”と言う)」 でした。これは、病気の人と健康な人の間で遺伝子多型(SNP:“スニップ”と言う)を網羅的に比較し、病気に関連する遺伝子を見つけようとする研究手法です。例えば、アトピーであれば、アトピー患者と健常者を集めて全ゲノムを解析し、アトピー患者群に多いSNPを抽出してアトピーに関連する特定の遺伝子を見つけるというものです。
当時の遺伝子研究者たちは、ヒトゲノム計画と同様に、このGWASによって複雑な慢性疾患などの原因遺伝子が次々と発見されることを期待していました。そして、実際にGWASによって数多くの疾患関連遺伝子が見つかりました。しかしながら、その多くは発症リスクをほんのわずかに高める程度の極めて小さな効果しか持たないことが判明しました[48]。その結果、「見つかった遺伝子多型(SNP)だけでは病気の遺伝的要因の大部分を説明できない」という問題が明らかになったのです。これを 「失われた遺伝力(missing heritability)」 と言い、遺伝子研究ではいまだに解決できない大きな壁として知られています[49]。すなわち、遺伝子は病気のほんの一部を説明することしかできないということなのです。
つまりは、多くの遺伝子研究者たちは、自分たちがやってきた遺伝子研究を過大評価し過ぎていたのです。もしかしたら彼らは、自分たちの研究こそが人類を救うことになるという幻想を抱き続けたかっただけなのかもしれませんが、そのために費やされた莫大なお金や時間や労力は決して返ってきません。そして、この「失われた遺伝力」などの遺伝子研究がぶち当たった大きな壁などからも、生命科学の研究の焦点は次第に変化していきました。すなわち、遺伝子そのものよりも、遺伝子が働く「環境」が重要なのではないかと考えられるようになってきたのです。
参考文献▽
[40] M. Cobb, 1953: When Genes Became “Information”, Cell 153 (2013) 503–506. https://doi.org/10.1016/j.cell.2013.04.012.
[41] D. Noble, It’s time to admit that genes are not the blueprint for life, Nature 626 (2024) 254–255. 10.1038/d41586-024-00327-x.
[42] F.S. Collins, V.A. McKusick, Implications of the Human Genome Project for Medical Science, JAMA 285 (2001) 540–544. 10.1001/jama.285.5.540.
[43] G.J.B. van Ommen, E. Bakker, J.T. den Dunnen, The human genome project and the future of diagnostics, treatment, and prevention, The Lancet 354 (1999) S5–S10. 10.1016/S0140-6736(99)90241-6.
[44] S. Sturdy, The Fortunes of Genomic Medicine: A Quarter Century of Promise, Ann Hum Genet 89 (2025) 342–353. 10.1111/ahg.70011.
[45] F. Collins, Has the revolution arrived?, Nature 464 (2010) 674–675. 10.1038/464674a.
[46] L.T. Morran, M.D. Parmenter, P.C. Phillips, Mutation load and rapid adaptation favour outcrossing over self-fertilization, Nature 462 (2009) 350–352. 10.1038/nature08496.
[47] W.J. Jansen, R. Ossenkoppele, D.L. Knol, B.M. Tijms, P. Scheltens, F.R.J. Verhey, P.J. Visser, a.t.A.B.S. Group, Prevalence of Cerebral Amyloid Pathology in Persons Without Dementia: A Meta-analysis, JAMA 313 (2015) 1924–1938. 10.1001/jama.2015.4668.
[48] G. Gibson, Rare and common variants: twenty arguments, Nature Reviews Genetics 13 (2012) 135–145. 10.1038/nrg3118.
[49] T.A. Manolio, F.S. Collins, N.J. Cox, D.B. Goldstein, L.A. Hindorff, D.J. Hunter, M.I. McCarthy, E.M. Ramos, L.R. Cardon, A. Chakravarti, J.H. Cho, A.E. Guttmacher, A. Kong, L. Kruglyak, E. Mardis, C.N. Rotimi, M. Slatkin, D. Valle, A.S. Whittemore, M. Boehnke, A.G. Clark, E.E. Eichler, G. Gibson, J.L. Haines, T.F.C. Mackay, S.A. McCarroll, P.M. Visscher, Finding the missing heritability of complex diseases, Nature 461 (2009) 747–753. 10.1038/nature08494.

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