前節では、環境の変化や栄養状態、あるいはストレスによって細胞の代謝変化が起こり、その結果としてエピジェネティックな制御を通じて遺伝子発現が変化することを説明しました。つまり、「遺伝子決定論」や「遺伝子中心主義」のような、遺伝子を生命の本質と捉える考え方では、生命の実態を十分に説明できないことがエピジェネティクスの研究からも明らかになってきたのです。
進化生物学者のリチャード・ルウォンティンは、生物の形質は遺伝子だけで決まるものではなく、遺伝子・細胞・個体・環境の相互作用によって形成されると述べ、遺伝子中心主義を強く批判しました[34,91]。また、科学哲学者のエヴリン・フォックス・ケラーも、「遺伝子は生命の設計図である」という比喩は生命の複雑さを過度に単純化したモデルに過ぎないと指摘し、遺伝子決定論を否定しています[92,93]。また生理学者のデニス・ノーブルは、生命とは多層的なネットワークによって構成されたシステムであり、遺伝子はそのネットワークの一要素に過ぎないとする「システム生物学」の視点を提唱しました[94,95]。
こうした議論の中で、生命を解する鍵として改めて注目されるようになったのが、エネルギー代謝です。生命とは本質的に、外部からエネルギーを取り込み、そのエネルギーを利用して絶えず化学反応を維持することで秩序を保っている動的なシステムです。この視点を理論的に整理した研究として、ニコルソンとゴーンは、生命を理解する枠組みとして遺伝子よりも代謝ネットワークを基盤とする “metabolism-first biology(代謝ファーストの生命観)” を提唱しました[96]。これはつまり、「生命とは静的な遺伝情報によって一方向的に決まるものではなく、複雑な代謝ネットワークによって維持される動的なオープンシステムとして理解すべきである」という考え方です。これは先述してきたシュレーディンガーやプリゴジンら著名な物理学者が出した結論とも一致するものです。
近年の研究では、細胞の代謝状態が遺伝子発現を調節することも明らかになってきました。DNAメチル化やヒストン修飾といったエピジェネティックな制御に関わる分子の多くは、細胞内の代謝反応によって生み出されています[27,82,97]。例えば、ヒストンアセチル化に必要なアセチルCoA、DNAメチル化に関わる S-アデノシルメチオニン、ヒストン脱アセチル化に関与する NAD⁺ などは、いずれも細胞の代謝状態に強く依存する分子です[97-101]。このことは、細胞のエネルギー代謝の状態が変化すると、エピジェネティックな制御を通じて遺伝子発現のパターンも変化することを意味しています。
つまり、遺伝子は生命現象を一方向的に決定する存在ではなく、細胞の代謝状態や環境条件の影響を受けながら働いているのです。近年の生命科学の研究から、生命現象を理解する視点は大きく変化しつつあります。かつては「遺伝子こそ生命の本質である」と考えられていましたが、現在では、細胞がどのような環境に置かれ、どのようなエネルギー代謝の状態にあるのかということが、遺伝子発現や細胞機能を大きく左右していることがわかってきました。このような視点から見ると、生命科学の中心的な関心は、
genetics(遺伝子)→ energetics(エネルギー代謝)
と大きく移りつつあると言えるでしょう。
生物学における真のパラダイムシフトは、すでに起こりつつあるということなのです。
参考文献▽
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